pre-communication

模擬会話

休職しました

前回の記事から1週間でこんなことを書くことになるとは思っていなかった。

仕事、休職することになりました。 医師の診断としては適応障害。 ただ、仕事に対するやる気が出ないだけで他に関しては以前より全然悪くなってないので、休めることになってラッキーという気持ちが強い。

あと調べたら休職中も結構お金もらえるんですね。 直近の月収の2/3が毎月傷病手当としてもらえて、しかも休職後退職してもしばらくは同じ額がもらえる。 僕の場合、税金を引いても大学生のときの仕送り並の額は手元に入るみたいで、ほとんど貯金に手を付けなくて良さそう。

今の会社は最初から、なんなら入る前から相性が良くないと思っていた。 根本的に社内にやりたい仕事がなかったし、人との相性もあまり良いとは思えなかった。 経営方針に全く満足していなかったし、それなのに少し子供扱いされていてそこに対して口が出せないような気がしていた。

なので最初からうつ病が治ったらすぐに辞めようと思って働いていたのだが、 なかなかうつ病は治らず、気付いたら我慢の限界に達していたようだ。

後になってから思えば、もうちょっとうまくやることはできたかなと感じる。

嫌な仕事は断ったほうが良かった。当たり前のことだけどこれができていなかった。 社内にやりたい仕事がないと言いつつも、まぁほんの少しくらいはそうでない仕事もあった。 それを専任に近い形でやらせてくださいと言えば、実はそういうふうに働かせてもらえたんじゃないだろうか。

なんで断れなかったかっていうのを昨日考えていた。3点ぐらい。

まず僕が一直線に昇給していくことにこだわりすぎていた。 2年半働いたから2回の昇給機会があったのだが、そのどちらでもまぁ日本の大企業じゃありえないような昇給をさせてもらっていた。

それでもあまり満足していなかった。 今のペースか、それ以上のペースで昇給するには会社にとって都合の良い振る舞いをしないといけないと 考えていて、それがあらゆる仕事をやるという態度につながっていた。

僕は大学の同級生と同じくらい価値のある人間とみなされることに固執していた。 大学の同級生は流石IT系のトップの大学院を出ているだけあって、初任給からものすごい額をもらっていて、 早くその額に自分も到達しないといけないという思いが自分の中でずっとあった。 よくよく考えてみると、同級生全員がそんな額をもらっているわけではなく、 むしろ既に僕よりも給与が低い人もかなりいたと思うんだけど、視界が狭くなっていた。

第二に、役員に仕事が嫌だと言っても聴いてもらえないと思っていた。 最初に言ったとおり僕は最初から会社に不満があったから、会社のことをあまり信用していなかった。 だから、会社に仕事が嫌だと言ったところで、ましな仕事が降ってくるわけではなく、 テキトーにあしらわれて、会社に反抗した分給与が下がるだけだろうと思っていた。

後から考えると実際はそうではなかったかもしれないなと思う。 僕が勝手に周りの人に解釈をつけて信用できないと思っていただけで、本当はもっと信用しても良かったのかもしれない。

信用していなかった上司は、僕から見ると「言ってることと思っていることが絶対違う」人だった。 その上司はほとんど人に注意をしなかった。 明らかにその上司の言うとおりに動いていない人に対しても、あなたのやっていることは違うと言わずに、 「これお願いしまーす」とか、わざとらしくポジティブな言い方で仕事を振ったり、あるいは何も口出ししなかったりだった。 他にも端々に「本音と建前」みたいな空気を感じて、それが僕は信用できなかった。

だけど、そういう上司の態度への解釈はあくまで僕の解釈であって、本当はその上司なりの思いやりの出し方だったのかもしれない。 あらゆる人が僕の想定通りの思いやり方をするわけではないのだ。 その人なりの思いやりの出し方として上記のような態度があったのならば、僕は結構勘違いをしていた可能性がある。

第三に、会社の能力的な面を信用していなかったというのがある。 会社の経営方針はダメダメだと思っていたので、僕が想定外の態度を取ったら会社はうまく利益を出せないだろうと思っていた。 会社の経営はカツカツで、自分が自由に仕事をする余裕なんて会社にないと思っていたのだ。

だけどこれも、僕が勝手に一人で経営目線を抱え込みすぎただけだったのかもしれない。 売上目標を達成するとか利益を上げるというのは経営者が考えればいいことで、僕みたいな従業員は 自分が何をしたいかとか何ができるかというのを伝えていれば十分だと考えることもできた。 実際役員の人との面談では「仕事が楽しいか」とかそういう点をよく聞かれた。

それに経営がカツカツと言っても、実際のところ会社は安定して利益を出せていたのだ。 もしかしたら僕が想定していた会社の成長目標よりも経営者の目標が低かった可能性なんかもあるのだ。 ここでも僕は自分の思い込みで突っ走っていた可能性がある。

とまぁ思い返せば、僕は一人で深刻な状況だと思いこんで失敗していた可能性がある。 だけど、まぁ休職が決まったのだから今考えても後の祭りである。

休職が決まって、僕は経歴的にも、能力的にも穴のある人間だということがはっきりしたな、と思った。 いや、そもそも大学院中退してるんだから元から穴はあいてたけど、 今までは、そういう穴が自分に存在することを認めようとしていなかった気がする。

たしかに大学院中退したけど、あれは研究室が最悪だったからで、 僕自身の能力は院卒と比べて劣らないと思っていた。 だけど、今回の休職は、後から考えてみればだけど、僕に一般的な能力があれば 回避できたことで、いよいよ能力的にも自分に欠陥があることが明らかになった。 そんな思いが今はしている。

言い換えると、僕はストレートに出世していけるような万能な人間じゃなかったのだ。 次の転職では普通に一流企業に合流して、そこから先は順調なキャリアを築く。 そう思っていたけど、ちょっと違うのかなと思った。

僕はできないこと、嫌なことがたくさんあって、それらをうまく避けていかないと調子を崩してしまうタイプだった。 しかもそのできないこと嫌なことは世間の普通の人とは結構違うみたいだ。 となると、「普通の人」がたくさん所属する会社で、そういう人に最適化された社風の中で 活躍するっていうのは難しいのかもしれない。

尖った人、というか「穴が空いた」人と言ったほうが適切に感じる。 そういう人に合った進路に方向転換していく必要があるなぁと思った。

そういうことを無意識にも意識的にも考えながら見つけた以下の記事が、なんか今後の僕の人生を 指し示しているように感じた。

toyokeizai.net

私としては、不登校から大学進学、そして就職と、「復帰コース」を走っていたはずなのに、またドロップアウトしてしまったことにひどく絶望しました。

しかし、その会社を退職したあとに、今働いているベンチャー企業に就職したのですが、そこには「こんな大人っていたんだ」とびっくりするくらい、社会の常識や枠組みにとらわれていない人が多かったんです。

こういう「社会の常識や枠組みにとらわれていない人」と一緒に働くのが自分にはいいのかもしれない。

この人の Twitter アカウントを見たけど、プロフィールに平然と昔ひきこもったと書かれていて、 こんなふうに心を病んだことをおおっぴらにしていいものなんだ、と驚いた。 なんというか、そういう体験をアイデンティティとして受け入れているように感じた。

よく考えれば僕はもう5年半もうつ病を患っているのだし、そういうふうに受け入れたほうが妥当だ。 ITエンジニアとしてコードを書いている時間は7年しかない。 1.5年しか差がない。 ついでに言えばその1.5年のうち0.7年ぐらいは忙しすぎてノイローゼになっていた。

じゃあ僕だって、プロフィールにうつ病と書くぐらいして、自分は穴の空いた人間です宣言をして、 同じようにベゴベゴした人間の輪に入っていったほうが自然なんじゃないだろうか。 そっちのほうが楽しい生活を送れるんじゃないだろうか。

しばらくはゆっくり休むけど、落ち着いたらじっくり考えれたらいいなと思う。

今は時間に余白ができたのが気持ち良い。 久しぶりにのびのびと考えをめぐらせることができていると感じる。 昼に食べた自分で作った豚汁がしみじみと美味しかった。 しばらくは人生のずる休みだ。やったぜ。

精神と思考の関係 2

1年くらい前に書いたこの記事を見るとかなり絶望していたんだなと思う。

somai.hatenablog.com

今も薬の量は変わっていないが、もう少し建設的に考えれている。

この記事で書いた精神と思考の関係についての考えは、しばらく経ってより正確で悲惨でない考えに置き換わった。

前書いたところによると、思考によって未来の認識は良いと悪いを振り子のように行き来するということだった。 しかし今はそう思っていない。未来の認識に良いも悪いもないのだ。

どういうことか。 それは未来は1次元のスカラー値ではなく、D次元のベクトルだということだ。 人間誰しも色々な目標や夢を持って生きている。 その数を100としよう。

現実的に考えて、100個の夢がいきなり陰るということはありえない。 思考した結果いきなり未来がそう見えてくるというのは、単純に落ち込んだ結果全ての物事が悪く見えてしまっているだけの話だ。 悪いと思っても、せいぜい1個か2個ぐらいが悪く見えるというだけで、他の夢については状況は変わらない。

と考えると、今の未来の認識は常に100個の数字で構成されるということだ。 人間の頭が常に100個の数字をトラッキングして、「今は前より悪くなった」などと論理的に考えることができるだろうか? そもそも100次元のベクトル空間での比較演算子はどのように定義されるのだろうか? そう考えると、未来について良いとか悪いとか言えるのは、単に未来のどこかの部分に執着しているからだと言える。

では、前の僕はなぜ思考によって良いと悪いが揺れ動くと考えたのだろう。 それは、実際には僕を悩ませていたのは「未来予想」ではなく「自分の価値」だったからだ。 そして僕は自分の価値に自信がなく、自分の価値は自分が達成した業績で決まると考えていた。

この前提があると、たしかに注目する値は自分の価値という単一のスカラー値になり、 自分が未来何かが達成できないとなるとその値が下がる。

また、正常な人たちがなぜ常に安定した精神を持っているかも分かる。 それは彼らが自分の価値に疑いを持っていないからだ。 心理学などで盛んに言われている話だ。 幼少期に親からの無条件の愛を十分に受け取った子供は、大人になってからも自分の価値を疑うことがない。 それに対して僕は親からそのような愛をあまり受け取れていない。 ここに正常な人と僕との明確な差があり、精神の安定性の違いに結びついていたのだ。

従って、僕がうつ病から寛解するには、自信を持つ必要がある。 どうやったらそうできるかというのは学術的にも研究されているみたいで、今は自尊心に関する本を読んだりしている。 調べてみたら、最近は自尊心の他にセルフコンパッションというものも提唱されているみたいだ。 最近は何がなんでもうつ病から寛解したいと考えているので、ケチらずにこれらを全部生活に取り入れるつもりだ。

しばらくして良い報告ができるようになっていたい。

クラウドサービス (IaaS) とOSSの関係

あらゆるミドルウェアクラウド事業者から提供されることでミドルウェアソースコードクラウド事業者しか見なくてよくなり、OSSの文化は衰退していくのでは?となんとなく考えたのだが、調べてみるとそう簡単な話でもないみたいだ。

  • まずはその意見に近い2010年の記事

The intersection of open source and cloud computing - CNET

インフラをクラウド事業者が完全に面倒を見てくれることにより、インフラのソースコードに貢献したりするのはクラウド事業者だけでよくなり、すると最終的にはクラウド事業者は OSS を fork したり放置したりするようになるのでは?という未来予測。

  • なぜクラウド事業者も OSS にこだわるのかを書いた 2012年の記事

Cloud versus open source - Cloud computing news

世の中の開発者はベンダーロックインを避けたいだろうから、特定のクラウドサービスに乗っかるとしてもその仕様が他のサービスとそんなに食い違わないことを期待するだろう。 仕様は当然使いやすいことが期待され、ソフトウェアの仕様を洗練させる良い方法はそれを OSS にして広く使ってもらうことだという趣旨。

  • 主要クラウド事業者の OSS へのアプローチを書いた2017年の記事

How Google Turned Open Source Into A Key Differentiator For Its Cloud Platform

そもそもクラウド事業はオープンソースである Linux とか Xen とか Docker とかのヘビーユーザーである。 特に AWSオープンソースで広く使われているソフトウェアの管理を自社でやってお金を取るというビジネスをほとんどの OSS で結構やっている。 Microsoft, AWS と違って Google は積極的に OSS プロジェクトを作っている。

追記するかも。

リズと青い鳥

大好きな Homecomings が主題歌をやるということで「リズと青い鳥」を見てきた。

liz-bluebird.com

僕は感情を表に出すのが苦手だ。 表現のしかたが分からないという面もあるし、表に出すのを恥ずかしいと思っている面もあるし、表に出しても誰も気に留めてくれないのではないかという恐怖もある。

そのように感情を表に出さないように生きていると本当にびっくりするくらい誰にも気づかれないようで、「人の感情は話せばわかる」などと豪語してはばからない人も明らかに僕の感情に気付いていない行動をするし、感情を読むことも仕事のうちというような職業の人からもきれいに見落とされる、ということがあって、まぁそりゃ自分で表に出さないようにしているんだから誰にも分からないのは当たり前だよな、と思いつつも、「気づかれたくないけど、気付いてほしい」みたいなアンビエントな気持ちになることもたくさんあって、でも自分から気付かれないようにしているんだから気付いてもらえないのは自業自得だよな…、でも本当は理解してほしい…と感情のはけ口が見つからないのが常だった。 カウンセリングを受けても本を読んでもまずは自分の感情を明確に出しましょうというところから話がスタートしていて、結局そういうふうに矛盾した態度を持つのは幼稚なことでダメなことなんだと自分に言い聞かせていた。

それがこの映画では登場人物たちが気付かれないようにしている感情が物語の中心で、中心なんだけどその視点の置き方が絶妙で、気付かれたくないという気持ちに完璧に配慮しながらも気付いてほしいという気持ちもすくい取ってくれるようなことになっていて、こういう世界もあるんだと目が開かれる思いだった。 監督の山田尚子さんはそのような感情への態度を「彼女たちの尊厳」とまでポジティブな言い方をしているのだが、それも映画を見ると理解できる。

なんだか自分の感情も肯定してくれた気分になって、嬉しかった。救いになった。 そのような物語が存在するということにもそうだし、少なくともそういう気持ちを汲んで作品として世に出してくれる人がいるということにもそう。 単純に何年も物語を摂取していなかったというのもあるけど、そういう話に出会えて良かったなと思う。

3回観たけど、毎回新鮮な発見があって、感想が変わる。 また観るかも。

FP v.s. OOP に対する Alan Key の回答

Alan Kay's answer to Why is functional programming seen as the opposite of OOP rather than an addition to it? - Quora

関数型とオブジェクト指向は compatible である。

計算とは現実世界のシミュレーションである。 シミュレートするときに現実世界の「時間」概念を CPU時間で表現していると race condition (競合状態) が発生するし、プログラムについて推論するのが難しくなる。 そこで、現実世界全体の「状態」を経歴として持ってそれぞれに現実世界の時間を反映した index を持たせて管理すると上記の問題が発生しなくなる。 ここまでを 1960年頃に Lisp の考案者であるジョン・マッカーシーが考えた。 我々オブジェクト指向考案者はこれがオブジェクト指向でも有用だと気付いた。 例えば、オブジェクト指向でも計算機の状態が正しく現実を模写した状態から次の正しい模写へ遷移するというイメージでプログラムをかける*1。 このように書かれたプログラムには競合がないし推論も簡単だ。経歴という考え方には他にも様々なメリットがあった。

重要なのはオブジェクトが状態を持つかやモナドがどうとかではなく、計算が現実のシミュレーションだと気づくことだ。

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大学で計算機科学を学んだ印象と結構違って面白かった。 大学で得た計算機科学への印象は、全てのものを「問題」だと捉えて計算とはそれを解くために使う学問、といった感じでシミュレーションという感じではなかった。 オブジェクト指向設計者の意図としてこの意見があるのは設計をする上での指針になる。ドメイン駆動設計とかこれを穏健にして技術よりにした発想ですよね。

ふんわりとした推測としてはプログラムの中の「問題解決パート」(複雑なアルゴリズムなどが出てくる)をうまく隠蔽して、アーキテクチャ的に上位のレイヤーでは模倣であるかのように見えるプログラムを書いていけばいいのかなぁ。という感じ。 まぁ上の回答中でもこの思想を現実にしているプログラミングツールはまだないということらしいけど。

*1:オブジェクト指向ではオブジェクトは現実世界の物事を反映したものという考え方は一般的だろう