pre-communication

模擬会話

表現方法と思考の窮屈さ

ブログをゆっくりと再開し始めたのだけど、思わぬメリットがあった。

ブログを再開したら前よりも伸び伸びと考えをめぐらせることができるようになったのだ。

今までは自分の思考が窮屈だなんてことは思ってもいなかったんだけど、 ブログを書く、というよりもブログを書くという選択肢がある状況で 考えをめぐらせてみると、今までなんて狭く考えていたんだろうと驚かずにいられなかった。 前よりも考えることに対して満足感を覚えることが多くなった。

 

というのも、「ブログに書こう」とするとある程度深くものを考えざるを得ないのだ。

まとまった文章を書くためには色々な準備が必要だ。 まずもってそれなりの長さを書くに足るだけ深く考えないといけない。 漠然とした考えでは文章にすることはできず、自分の考えをはっきりさせておく必要があるし、 考えの間にはしっかりとした関係性や構造がないと、書く文章もまとまりのないものになってしまう。

そういう文章を書くために必要なことをやっていると自然と考えも深まっていく。*1

 

ブログを初めて最近思いだしたのは、こういう深い思考は最近はやめていたけど昔はよくやっていたということだ。

昔というのは大学生、大学院生時代ということだが、この時期にはとにかく深くものを考えることが求められる時期だった。

難しい教科書や論文を読みこなさないといけないし、それを読んだ上で試験では論理的に完璧な数学的証明を書く必要があった。 短期間で複雑なソフトウェアを使いこなさないといけない課題もたくさん出た。 それらの課題では、巨大なソースコードやドキュメントを渡されることもあれば、 逆に全然情報がない中で推測してなんとか動作を理解する必要があることもあった。

一方で最近はそういう機会がなかった。

社会人になると大学生のときよりも難しい仕事が降ってくるのかと思いきや、そんなことはなかった。

(僕のいる会社がそう、というだけかもしれないが)基本的に降ってくる仕事は既にやり方が決まっていて、 その仕事をこなすために使うツールも自分が既に慣れ親しんでいることだし、 求められているのは複雑な概念を理解したりすることよりも、簡単な仕事をいかに効率よくこなすかということだった*2

 

ブログの代わりのSNSというと Twitter では自分の考えを書いたりするのだけど、このサービスは本当に思考の深さに関してはブログの真逆で、 そもそも140字でいいし、140字の中では考えの構造とかないし、フロー型のコンテンツだからしっかりした考えはむしろ避けられるしでほんとうに考えずに使えてしまう。 これでは投稿する際に深くものを考える必要などなく、更に言えば140字という枠に収まらないような思考はそもそも 頭の中で枝刈られていってしまう。

140字で自己表現ができると考えていたのが間違いで、思考が窮屈だなぁと感じていたのはまさに Twitter のせいだと思っている。

 

人によっては、そんなに深くものを考えたくない、140字でいいと思ったりもするだろうが、 僕の場合はなんだかんだ深い思考が好きなんだなと気付かされた。

学生時代の思考の深さは6年間もやった分だけあって自分の中に染み込んでいて、 その深さで考えることに落ち着きというか、やっぱこうあるべきだよな、みたいなふうに思ってしまう。 大学の専攻だって自分でわざわざ辛い所を選んだんだし、最初から自分はそういうのを好いている人間だったのだろう。

 

というわけで、ブログを書くというのは僕の中でそれなりに深く考える契機や機会として機能し始めたんだけど、 それに甘えることなく、今後は自分の深い思考の引き金になるような活動を増やしていきたいと思う。 それは大学時代に戻って教科書を読んだりすることかもしれないし、また別の新しい活動かもしれない。

ブログで相対的に思考が深まるのは僕にとって正しかったのだが、じゃあブログだけで十分かといえばそうは思わない。

ブログを書くために必要な深さというのもある程度限りがあるし、何よりブログという表現形態に自分の思考が縛られてしまうのが嫌だ。 Twitter がある程度思考を窮屈にさせていたのを考えると、ブログもまた思考をある程度窮屈にしているだろうから、表現する先はもっと色々あったほうがいいだろう。

 

どうして深く考えることにこだわるかといえば、それが自分の長所だと思うからだ*3

社会人になって思うのは深く考えることができない人が多いこと。 それは仕事をし始めて新しく知った人についてもそうだし、学生時代の友だちでも それだけしか考えてなかったのかと知って驚いてしまう人もたくさんいた。

他の人があまり持っていない能力なのだったらそれを伸ばしていけばその能力が必要になったときに 強い力になるだろう。 それにそういう能力が必要になる場面は必ずあると僕は思っている。

*1:追記:まるでブログに書こうと思わない限りは深く考えないというような主張になってしまったが、言いたかったのはそういうことではない。こみいった考えをした結果を書く場所としてブログという選択肢が用意されている状況では常に深い思考をすることに有意義感が増し、普段から深く考えることが多くなる。ということを言いたかった。

*2:もちろん大学生のときには必要なかった能力が求められたりはしてそこでは成長が必要だという思いもあるけど、 一部の能力は卒論やそれ以前の課題よりも遥かに低レベルでも仕事ができてしまうことには驚いた。

*3:もちろん長所と言っても相対的なもので、世の中には僕よりもはるかに深くものを考える人がいることも学生時代によく分かった。でも学術界と比べると産業界にはそういう人が少ないのではないかという気もしている。

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打ち明け話

Disclosure: うつ病がまだ直っていない

「1年ぐらいで治るよ」と精神科医に言われる程度の軽いうつ病がもう5年近く続いている。

カウンセリングは効かないし友人に相談しても何も良くなる感じがない。 あるいはまともな相談相手をやってくれるような友人がいないと言ってもいい。

物語を少し語れば彼らはそれで満足らしい。

今までネガティブだったけど、今はポジティブです。ポジティブになる兆しがあります。みたいな物語。 回復の可能性を僕が語ればそれはすなわちそのまま着実に回復することを意味するらしい。 暗い過去に原因を見出してそこから明るい未来を帰結すれば立ち現れた因果関係に彼らの論理回路は満足し、計算を終了する。 こんなにも脆い論理展開なのに。 少し突けばボロが出るそれを僕は彼らに語った後で実際に自分の中で破綻させている。 元から破綻していたのだからそうなるのは仕方ない。 単なる時間の問題で、語る瞬間は顕在化しないが、それはそれが十分に短い時間感覚だからだ。 ある程度の時間があれば自動的に思考が進み、論理の欠陥は明らかになり、別の物語を探さねばならなくなる。

物語を語ってしまうのが問題なのだ。 僕は人にはいいところを見せようとするところがある。 学校の先生と生徒。 生徒の立場に僕はずっと立っている。 何かの評価基準があり、それに乗れば喜ばれる。 喜ばれないということは何かの期待に背いたということだ。 その恐怖に潜在的に突き動かされている。 人間関係に感情を依存させすぎている。 『人間関係に感情を依存させすぎている。』。ここでもまた物語を作ろうとしている。

最近は思考の深さと精神の調子の関係について気が付くことがあった。

世間一般では思考を深めていくとどんどん状態がよくなるものだと思われている。 悪い状況がある。思考を一歩進める。事態が少し改善する。もう一歩進める。また改善する。こんな調子で最終的に良い状況に持っていけるというのが常識的な考え方。

しかし実際には思考と状況、特に精神状態に関しては、螺旋のように進んでいくものだというのが僕の気付きだ。 たとえ間違った考えから着実に論理の階段を登って正しい考えに到達する過程であっても、その間の精神状態は一直線に良くなっていかない。 憂鬱である。ここで思考。良くなる。ここでもう一つ思考。今度は悪くなる。もう一発。良くなる。これの繰り返し。

なぜ毎度悪くなるのかと訊かれたら思考とはディベートだからだと答える。 賛成派が発言した後には賛成の色が濃くなるが、その後反対派が良い反駁を返せば反対に傾く。 正しい考えへの道には良い対立意見が必要であることを考えれば、思考が正常であるほど強い反駁が毎度返ってくることになる。 反駁の度に未来の認識は憂鬱のほうへと引き戻される。 それに反論してもラリーが続くだけである。良い。悪い。良い。悪い。良い。悪い。

この枠組みで考えると正常な精神状態へはなかなか戻れないように思えてくる。 一方で、世の中の大半の人の精神状態は正常である。

これはなぜか。 おそらく人間は自分の立場が思考のディベートで揺らいだりしないのだろう。 平たく言えば大半の人間は楽観的だということだ。 楽観的とまでは言わなくても、自分の健康を脅かす程度に悲観的にはなかなかならないようにできているのだろう。

正常な人間でも思考は上のような形を取るが、彼らは常に賛成側の立場を維持できる。 良いと推論する。すると悪いと反駁が飛んでくる。しかし彼らの立場はその反駁で揺らがない。なおも賛成の立場からそれを受け止め、短い時間で更なる反論を飛ばせる。

それが彼らが(認知療法でよく言われるような)思考(事実)と認知(解釈)の分離が正しくできているからなのか、それとも思考そのものが楽観なのかは分からないが、そうなんだと思う。 実際、そういう機能がなければ常に情緒不安定になるのだから人間には必要な機能である。流石生命。よくできている。

しかし一度その機能を失ったときにすぐに戻れるようにする機能も標準で装備していてほしかった。 失っていた期間が長すぎたからか、それを取り戻すのに酷く時間がかかっている。

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文章と助けを求めること

いつの間にか人に文章を書くことと承認欲求を満たすために文章を書くことをイコールで考えている自分がいた。 別に後者がずっと自分になかったかというとそんなことはなくて、中学生のときにブログを書いていたときもなんで書いているかといえば基本的に人に面白いとか言ってもらいたいからで、まぁ後者じゃんって感じなんだけど、あのころはもっと間に厚いベールがあった気がする。

認めてもらいたいんだけどどうやったら認めてもらえるか分からなくて、とりあえず自分が思う良い文章を書くというふうに行動が流れていた。 当時は当然SNSもなかったし、ブログにそなわっているアクセス解析機能なんてのも貧弱なもんだったから、自分のどの記事が受けたのかなんて全然分からなかった。極稀に来るコメントを見るとか、当時はやっていたブログランキングに登録してランキングの推移を見るとか(投票が来るのは稀だったからこの方法もたいして役に立たない)そんなものからなんとなく予想するだけだった。Googleアルゴリズムページランクによるウェブサイト毎の点数に大きく依存していて、そのランクが低い弱小ブログが検索結果上位に載ることはなかった。 そういう状況で書く文章は他人からの評価というよりも自分の評価によってジャッジされて、良いと思う文章を書いてどこの誰だか分からない他人が見て楽しんでくれるのを待つという感じだった。待っても来ない他人。

それに比べて今はなんて話は言うまでもないので省く。 いつの間にか数十字程度のツイートに来るいいねの数を専ら気にしていた。

数年、いやもっと前から「人に頼れるようにしていかないとこの先立ち行かなくなるだろう」という気持ちがあった。 人生で自分に降ってくる難事は年を取るごとに大きくなっていくわけで、今自分ひとりで太刀打ちできていても将来もそうだとは限らない。 その将来いざというときに人に頼れるようになるために必要なのが自分の状況を人に言語で伝えることだと最近気づいた気がする。 この能力はまさに承認欲求を満たす以外の他人に文章を書く目的だろう。

と、ここまで書いてあまりにも自分の話の本題に入っていけないことに辟易し始めた。 積み重なる前置き。前置き。読者には必要であろう本論からの脱線。前提の説明。 自分の頭の中では「アレ」で済んでいることが他人に伝えようとするとそれなりの文章になってしまう。 これをめんどくさがることこそが他人に文章を書くのが苦手ということであり、今までそれをしてこなかった負債という気もするが… 小学生の頃なんかは千文字程度の読書感想文を書くのに泣きそうになっていたが、大人になると結構書くことは出てくるものなんですね。

日を改めます。

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サイドプロジェクトをやり遂げるには

How to Ship Side Projectsから意訳。

  • サイドプロジェクトをやり遂げるために極めて重要なのは勢いだ。
  • 目的を自問せよ。目的によってプロジェクトの進め方が大きく変わる。
  • cut scope aggressively. 初めはプロジェクトの最終型について考えるな。最初に考えるのはせいぜいライブラリかCLIぐらいだ。最初から最終型について考えていると勢いが落ちる。
  • Wear One Hat at a Time. 一度に一つのことしかするな。つまり一番最初はプロダクトマネージメントだけやれ。エンジニアリング、デザインはその後だ。(この項目にある箇条書きは後で読み直す。プロジェクトの最初にどんなことを考えるといいかが分かる。)
  • writing と editing は別の作業だ。一度に両方やろうとするな。
  • プロダクトを公開するときには、使ってくれる人が(インターネット上の)どこにいるかをしっかり考えて、そこに向けて公開しろ。
Hacker News のコメント
  • プロダクトを最後に磨き上げて宣伝する部分が一番大変で面倒。
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1聞いて10分かった気になる人

1聞いて10分かった気になる人がいる。
「分かる」、ではなく、「分かった気になる」。

 

こちらがほんの少ししか喋ってないのに、こっちが言おうとしていることを100%分かったと思い込む人。
そしてその思い込みに従ってアドバイスや評価をしたりする人。
大抵は、こちらの発した僅かな言葉からこちらの体験や意見を自分が昔体験したり考えたことと同一だと勘違いして、
少しズレた意見を言ったりする。
言われた人は相手がまるで1聞いて10を知ったふうに話すものだから、そのズレに気付かなかったりする。

 

 

状況によっては僕もそうなる。

昔ソフトウェアエンジニアになりたての友人が、仕事でうまくいかないことを話したいのにうまく言語化できてなかったとき、僕は心のなかで「どうせこういうことが言いたいんだろ」と思って話がなかなか前に進まないことに歯痒さを感じていた。
もっともそのときの僕は、思い込みに従ってアドバイスしたりはせずに、「こういうことが言いたいの?」っていうふうに何度も訊いていただけだったから、まだマシだったかもしれない。

 

 

誤解を防ぐために一応区別をする。
人の話を聞いた時に、それと「近い」自分の体験を想起する「能力」は重要だと思う。
相手に共感したり、会話を前に進める上で必要になってくる能力だし、これは僕に足りてない能力でもある。
ここで言っているのはそうではなく、自分の体験を相手の体験と「同じ」だと思い込む「姿勢」のことだ。

 

 

あたかも悪いことのように書いたけど、実際には会話の目的を何に据えるかで変わると思う。

 

例えば、単におしゃべりを楽しみたい場合。

「分かる!」と相手に共感して盛り上がるのは良いことだと思う。
盛り上がればいいから、話の中身が実際とずれていてもそこまで気にはならない。

 

あとは、会話の当事者の関係性が定まっている場合はむしろ良いほうに働くこともあると思う。

例えばある会社でAさんがBさんの部下だったとき。
この場合、Aさんが社内で体験することはだいたいBさんも体験してるだろうから、会話の早い段階で
アドバイスなどをくれることは良いことだろう。

 

 

だけど、ある種の会話においては、こういう姿勢は悪い方に働くんじゃないかと思っている。

ある種の会話というのは、なんというか「深い会話」とでも言うようなもの。
例えば、会話によって双方が新しい知識を得るとか、悩みの解決法が見つかるとか、思いを共有するとか…とか…
うまく言い表せないけど、なんでこんな会話を題材にするかというと、これが多分僕がやりたい会話だからだ。
まだ自分の中でも明確になってないから漠然としているのは仕方ない。

 

とにかく、そういう会話では早計な「分かったつもり」は目的への到達の障害になりうる。

まずもって言おうとしていることを取り違えられているのだから適切な意見を貰うことはできない。
取り違えている側は会話の全てが自分の体験から引き出されるだけなので、会話から新しいことを何も得られないだろう。
更に取り違えられた側が本当に話したかったこと、やりたかった会話をその場に実現することが難しくなる。

 

 

会話の目的によって変わると書いたけど、もっと根本的に、そのような「姿勢」に対する疑念もある。

自分の体験や昔考えたことが一般的なものだとむやみに思い込む態度は、世界や人の多様性や複雑さへの理解の欠如の印なんじゃないだろうか。
そういう姿勢をもつ人は、例えば大きな話だとLGBTとか、身近な話だと結婚しないこととか、そういうことに対する受容も同様に難しくしているという予想がある。

 

 

前半で区別したように自分の近い体験を思い出す能力は強力な能力だと思う。

でもそれに飲み込まれて、世の中を過度に単純化して見てしまうのは避けたい。

複雑さに向き合うだけの知性と謙虚さを備えたいと思う。

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